東京から私鉄に乗ってたどり着く埼玉の山沿いにある町に、地元のアマチュア劇団が、蔵を改造して小さな劇場を作った。そこでの公演に二年連続して彼女が出演した時の事だ。
「寄せ鍋」と銘打ったその公演は、10分程度の短い芝居をいくつかのグループが上演するという形式で、たまたまその中に青野武さんが所属する劇団の若手が出演するモノもあった。そもそもその地方劇団の主催者が、青野さんと懇意にしていたからであるという。
最初それを聞いた時、彼女は驚いたそうだ。
彼ほどの有名な声優が、言葉は悪いが地方のアマチュアと懇意にしている事が信じられなかったのだ。
しかし、青野さんはやって来た。しかも、お客の一人として。
舞台前、裾幕から客席を見てその姿を確認した時、彼女は非常に緊張したという。
ナンといっても役者としての大先輩である。それに(やはり)ヤマトファンだった彼女にとっても、「青野武さん」は特別な人だった。
その公演で彼女が演じたのは、夏目漱石の夢十夜から「第三夜」を抜粋したものだったそうだ。
訳もわからず子供を背負い、その子供の言うなりにさ迷い歩く男。奇妙に強気な子供に自分の感情を見透かされて、男は苛立ちと不安の募らせていく。そして最後に……。
終演後の打ち上げで、彼女はずっと青野さんを意識していたという。
本音は、すぐにでも隣に座って「ヤマトの真田さん役が素敵でした。一杯注がせてください」と言いたかったのだが、青野さんの周囲は、それこそ同じ劇団に所属するベテラン役者や、今公演の主催者達がそろっている。妙なところで引っ込み思案な彼女は、どうしても気軽には声をかけられないでいた。
そんな彼女が青野さんと親しく話が出来たのは、一座の話題が公演の内容になったからだった。
彼女の演じた「夢十夜」は、お客さんからかなりの好評を得ていた。真夏の最中の公演で、客席は40度近くの暑さ。そんな中、夢十夜を見たときだけゾッと鳥肌が立って寒くなったと、何人ものお客さんから彼女は言われたそうだ。
その話題になった時、青野さんは彼女に向かって
「君、いいねぇ〜。よかったよ、あれ。見ててゾクッとした」
とニコニコしながら言った。
天にも登るような気がしたそうだ。