勝手に青野さんお誕生日お祝いPROJECT
青野さんの話

 30近くになって芝居がしたいと上京したが、思うようにはいかず、経済面にも将来にも自らの才能にも不安を持っていたという彼女にとって、青野武さんの言葉は、まさに値千金だったのだろう。
 その後、「偉い人」が固まったテーブルへ彼女は招かれ、そこで青野さんと親しく話す機会がもてた。
 青野さんは「役者でござい」と言った世間ズレたところが少しもなく、気さくで、酒の好きな普通の「おじさん」だったという。
 大先輩なのに偉ぶったりもせず、彼女を対等な「一人の役者」として扱ってくれた。仕事と芝居の板ばさみになっている彼女の悩みさえ熱心に聞いてくれ、そして……

 『僕らも若い頃はバイトばっかりだったし、今だってそれは変わらないよ。君がさっき「ヤマトの真田さんが好きだった」と言ったけど、あの頃だって、僕は夜中のビル掃除のバイトしたりしたよ? この世界、食ってくのは難しい…。でも誰だってそれを越えてきてるんだから、がんばりな』

アイコン

 「その一言で、どれだけ救われたかわかりませんでしたねぇ……。もっとも、救われたせいで、その後は馬鹿話ばっかりしちゃいましたけど」

 彼女は苦笑しながら、けれど誇らしげに言った。

 僕や周りの連中は驚いていた。
 ヤマトの当時、幾つものアニメから青野さんの声は聞こえてた。彼女に寄れば、昔の声優はみんな普通の役者でもあったから、舞台やテレビに出演する事もあったという。 
 それでも、そんなバイトをしないと食べてはいけないのか。あの当時の青野さんといえば今の僕らとさほど年も変わらないだろうに……
 華やかに見える世界の厳しさを、見せ付けられた気がした。
 しかしまた、その厳しい世界で生き抜いた先輩として、迷う彼女に偉ぶる事なく声をかける様子も目に浮かんだ。多分ちびまる子ちゃんの友蔵じいさんのように、暖かく、どこまでも相手を受け入れようとするものであったのではないかと思え、正直彼女が羨ましかった。
 しんみりした相談の後、関西出身の彼女は打ち上げを多いに盛り上げて青野さんに気に入られ、自分たちの劇団の稽古場に遊びにおいでと誘ってもらったという。

 しかし、結局彼女はたった一度しか稽古場を訪問しなかったらしい。引っ込み思案は、やはり治らなかったのだ。

 次の年も、同じ場所で、彼女は青野さんと顔を合わせたそうだ。

 しかし何故か、それから先の事を彼女は口にしようとしなかった。
 そこまで話しておきながらと酔った勢いで同僚達がしつこく続きを急かしたが、いつものように冗談ではぐらかし、彼女は巧みに話題をそらしていった。元々が酒の席での事、皆はすぐ乗せられ、気がつけばどこの職場でも変わらない上司の悪口へと話題は移っていた。

 残念だと、僕は正直思った。なんとか続きを聞かせてもらえないものか。明日の昼休みにでも、声をかけてみようか。

 そんな考えが、多分顔にも出ていたのだろう。じっと見る僕に、彼女は困ったように一瞬目を伏せ、それから、ほんの少し右手を立ててあげ、小さく頭を下げた。

 ゴメン。でも、今はまだ言いたくないの……

 彼女らしくない寂しげな声が聞こえた気がした。

 

 以来まだ、彼女の話は聞いていない。

蝶のイラスト
28 JUN 2010,吉野御前
背景素材:「MILKCAT」
inserted by FC2 system